2009年 3月 2日
碑銘。
右半分がチベット文字、左半分がネパール語。
左上に似顔絵、左下にトリブヴァン大学時代の学生証。
ネパール東部丘陵の村、チョウキにある唯一の学校です。
この学校で英語を教えていた若い女の先生が亡くなったので、学校の横にその人のための碑が設えられて、そのために小屋が建てられていました。ムナという人です。
旅の感傷ですが、私は彼女に一度だけ会ったことがあります。その4年半後の2008年3月の初めに、何となくもう一度会いたくなって、カトマンドゥからはるばるバサンタプルまで行ったところで、住人に「10日前に死んだ」と聞かされました。バサンタプルからチョウキまでは山道を歩いて5時間ぐらいでしたが、近郊の村や町の人はみな彼女のことをよく知っていました。
昔書いたブログ記事から。
2008年03月28日16:57
カテゴリa.ネパール
バサンタプルBasantapur ネパール
3月10日。
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バサンタプルはヒレよりさらに寒い。夜のために薄いセーターとマフラーを買う。
Yakホテルの屋根裏部屋は昼間から外よりも寒いので外をうろついて過ごす。
デウラリ、チョウキ方面に向かう道の村はずれでチベット人の少女と知り合う。よく見ると気づくような小さな店をやっていた。中に迎え入れてくれて炉にあたらせてくれ、ブラックティーをおごってくれた。しばらく話をする。チベット人のわりには穏やかな感じの子だった。苗字はLamaだがチベット人のLama(という苗字)とタマン族のLama(という苗字)とはまったく違うんだということを強調していた。ソルクーンブのシェルパとも言葉はまったく違うという。「シェルパはカネカネだね」、というとそうだといっていた。あとでわかったことだが、彼女も「シェルパ」は「シェルパ」だった。ただしダライラマ亡命後にネパールに移動したチベットのシェルパである。シェルパは単に「東の人」という意味。
たしかに昨日会ったライの青年に比べるとこのチベット人の少女の方が賢そうに見える。英語はあまり話せないが理解力はしっかりしているように見える。
チベット語はほとんど話さず読み書きはできない。親との会話もネパール語。チベット語ができるのはカトマンドゥのチベット人地区(ボーダなど)のチベット人だということ。彼女はチベット人の伝統的な主食ツァンパ(彼女はチャンバと発音していたが)をはるばるカトマンドゥのボーダまで買いに行くという。家畜のえさに混ぜると育ちが良くなるのだとか。
私は「優しさ狩り」の旅もセックスツーリズムに等しいと思っているので、「人の暖かさ」などを求めて田舎に踏み込むようなことを戒める。それは「特別な待遇」を求める旅に過ぎない。
私がここまで来ているのは、静かな場所を見つけたいのと、この丘陵地帯にうまく表現できない魅力を感じるからである。
ラリグラスの季節は4月で、今はまだ咲いていないという。
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このチベット人の少女というのがヤンジ。
2008年03月28日17:56
カテゴリa.ネパール
ラリグラス ネパール
ラリグラスという言葉が不思議な呪文のように迫ってくる。ラリグラスといわれただけで、心の中にある「何か」を言いあてられたような気がする。
ラリグラスとは何のことか長い間はっきりわからなかった。花の名前らしいことはわかっていたが、それ以上の特別な意味があるのだとずっと思っていた。
「ラリグラス」という言葉を口にする人はみな、心を言いあてたときのような控えめな笑顔を作る。バサンタプルで「ラリグラス」というと、ニコっとして「チョウキ」という答えが返ってくる。
私は「チョウキ」という地名をすっかり忘れてしまっていた。しかし「ラリグラス」だけはよく覚えていた。
あの時と同じ場所に行くために、ここからどちらへ歩けばいいのかを聞きたかった。
バサンタプルの村はずれのチベット人の娘からすぐに答えが返ってきた。同じように人を見透かすような微笑と一緒に。
長い黒髪が異様に美しいタマンの娘がいたロッジの名前も「ラリグラス」だった。
チョウキは普通の地図には載っていない。
以上のようなタワゴトを日記帳に書いたときには、私は何も知らなかった。ラリグラスはまずネパールの国の花だった。4年半前に来たときはラリグラスの季節ではなかったので、私はラリグラスの花を見たことが一度もなかった。
3月11日。
バサンタプル、Yakホテルの同宿者たち(うるさいネパール人たち)は午前6時ごろに起き出してバタバタと出て行った。
7時過ぎに外を歩いてみても茶屋がほとんど開いていない。開いていても客にお茶を出していない。
薪が積んであるところを通るとサンダルウッドの匂いがしてくる。
「ラリグラスのタマン」と言っただけで誰のことを言っているのかわかってしまったらしい。朝村はずれのチベット人の娘(Yanziという)の家の前のベンチに座って話していると、ネパール人の女の子が割り込んできた。
Yanziがにっこりして「(私が)ラリグラスのタマンのところに行きたいらしい」とそのネパール人の娘に言うと、彼女はいきなり私に向かって大きな声で「彼女は死んだ。10日前。テンデイズ・バヨ(ネパール語と英語の混交)」と言う。
私はこのネパール女に何も聞いていないし言ってもいない。私はきのう一回だけYanziとの会話の中で「ラリグラス」と「タマンのロッジ」という言葉を使っただけなのだが、Yanziにはただちにすべてわかってしまい、それを聞いたネパール人の女にもわかってしまった。
Yanziも彼女が死んだことは知っていたようだったが、それまで何も私に言わなかった。あのタマンの娘には姉妹が何人かいたはずだが、私が誰のことを考えているのか彼らには全部わかっていた。
念のために「髪の長い娘」というと、Yanziはわかっているというふうに笑った。
10日前ダランDharanの病院で、Yanziによれば「ダイファイト」で死んだという。
たった10日前に亡くなっていた。彼女の名前はムナ。ムナ・タマン。
チョウキはここから遠いのだが、彼女たちには付き合いがあったようである。そして髪のこともよく認識されていたようだ。
11日間入院して「鼻から血を出して」死んだ。入院するまではまったく元気だったという。
左手の青い建物がムナの家、チョウキの「ラリグラス」というロッジ。
2008年03月28日22:59
カテゴリa.ネパール
ムナの葬儀 チョウキChauki ネパール
3月11日。
4時半過ぎにチョウキChauki着。ロッジ「ラリグラス」は閉まっている。
どこに泊まろうかとウロウロしているとどこからともなくYanziが現れた。彼女は私を早々と追い越してチョウキに来ていたのだ。どこで追い越されたのかもわからない。道は狭いのに彼女に会っていない。パンチポカリの手前でYanziの弟に会った。弟は姉はもうチョウキに行ったというのでキツネにつままれたような気がした。まず彼がYanziの弟であることに気づくのに時間がかかった。Yanziはチョウキに行くようなことはひとことも言っていなかった。
ムナの葬式はまだ続いていて「ラリグラス」は営業していなかったが、Yanziに連れられて裏口から入るとムナの姉妹たちに出迎えられた。
数年前にここに来てムナたちに連れられてジリキムティまで歩いたことがあると言うと、ムナのいちばん末の妹モヌ(マヌ)に「あなたはゲストだ」といって迎えられ、お茶を出される。モヌはダランの学校に通っていて英語を話す。
モヌによれば、ムナはニューモニア(肺炎)でダランの病院に11日間入院したあと、10日ほど前に亡くなった。
入院するまで体の調子が悪いことをひとことも言わなかったという。ムナはダランで火葬された。享年は、ある人は28歳だというが30歳くらいのはず。
モヌはいま18歳。この日はモヌとYanziが私の世話をしてくれた。
タマン族の葬儀は12日間続き、今日が11日目。モヌたち親族は今夜、外の芝地にしつらえられている祭壇の前で徹夜の儀式をする。ラマの説教を聴いたり礼拝したり。
数年前、ムナとムナを姉のように慕っているチェトリの少女プジャと一緒にチョウキからテルトムまで歩いた。途中のジリキムティにはムナの従姉のビマ ラがやっているロッジがあり、そこで1,2時間休憩した。そのあとテルトムで二人と別れ、ジリキムティを経てラスネまで一人で戻った。しかし、そのときの ことはもうぼんやりとしか覚えていない。本当に思い出せるのは、ムナとプジャと一緒にジャングルの道を歩いたこと、風になびくムナの長い髪が異様に美しかったこと、プジャがしきりに話しかけていたことくら い。テルトムやジリキムティがどんなところだったかもまったく覚えが無い。
たった1,2時間立ち寄っただけの私をジリキムティのビマラが覚えていてくれた。私はこの人に会ったことも全く思い出せない。
プジャは当時14歳と聞いたはずだが、みんなが言うにはいま22歳でロンドンに留学している。彼女は当時から英語が流暢で歩いている間ひっきりなしに無駄口をたたいていたが、アーリア人によくある高飛車なところはなく、チェトリは嫌いでタマンが好きだと言っていた。ムナを本当に慕っていて尊敬もしていたようだった。ムナが死んだあとモヌと国際電話で話をしたとき、プジャはムナの死を信じず、モヌの話に怒り出し、やがてたいそう泣いたということ。今もまだロンドンにいる。
ムナはチョウキの学校で英語の教師をしていた。学業は17年目まで修了していて、まだ続けていた。「ディグリー」をとったら結婚するといっていたという。品行方正でタバコや酒はもちろん肉も食べなかった。ミルクティーさえ飲まず、いつも白湯(タトパニ)を飲んでいた。なんで病気になったのかわからないとみんないう。白湯は体に悪いという珍説を唱える人もいた。
そこで徹夜の読経や礼拝が行われる祭壇にはラリグラスの花が捧げられていた。
私も参列した。葬式が12日も続いたおかげで、私もムナの葬儀に参加することが出来た。
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私は眠くもなかったので深夜まで付き合って外で起きていた。18歳のモヌはときどき休憩して飲み食いするラマたちや客たちの接待に大童だったが、ずっと私に気を使ってくれた。ミルクティーをついでくれたり、ときどき何か不足なものはないかと聞いたり、ここにいるようにと言ったかと思うと自分たちは起きているが眠くなったらいつでも寝てもいいといってくれたり、明日は帰らないようにと言ってくれたり。まるで親戚のような扱いをしてくれた。もちろん他の姉妹たちがどう思っていたかはわからない。
モヌは東南アジア風の美しいルンギをはいていた。
家族の雰囲気はそんなに悲しそうには見えなかった。ときどき笑い声も聞こえる。悲しい気持ちを紛らわすために12日間もこんなに盛大な葬式を続けるのかもしれないと思った。
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翌朝も祭壇の前でラマの太鼓に合わせた親族による礼拝が続く。祭壇をしつらえてあるのは「ラリグラス」の裏の丘の片隅。
モヌは昨夜は一時間しか寝なかったという。昨夜灯された108つの灯明の前でたった前の礼拝が続く。
ラマのデンデン太鼓の音頭にあわせて時々みんなが祭壇にラリグラスの花を投げる。
葬儀の最後の日である。
昨日はきわめてクールに振舞っていたYanziが、今日はうしろの席に座ってポロポロ涙を流している。隣にいた私が何か声をかけようとしても相手にしてくれない。祭壇の前でたったまま礼拝している姉妹たちもみんな泣いていた。ムナとの最後の別れの儀式だったのかもしれない。
葬儀はクライマックスを迎えていた。昨日は白くて美しかったモヌの顔が重労働と睡眠不足と悲嘆のためか、腫れ上がっている。
別れの儀式は午前中3,4時間続いた。祭壇のまわりはラリグラスの赤い花びらであふれている。
私もムナとの「儀式的な別れ」をしたいと強く感じた。しかしそれは私には許されないことだった。というより彼らの儀式の流れを理解していなければ、そして、「その時」が別れの時点だということを信じていなければ無理なことだった。
Yanziは昨晩、タマンの仏教とチベット人の仏教との違いを強調していたが、今日は完全に儀式の流れの中にいた。
日本の葬式と違い、祭壇に遺影が飾られることもない。参列者が一人ずつ焼香するという儀式もない。個人的に別れを告げる機会が設定されていないので、少し物足りなさを感じる。しかし個人的な別れの儀式をしないのは祭壇の前の聖域に入っている遺族も同じのようだった。
生前のムナの写真を見たかったが葬儀が全て終わるまで見せてもらえなかった。すぐに出せるところには一枚もなかった。
そのかわりモヌが携帯で撮った火葬前のムナの死に顔写真を見せてくれた。モヌは死に顔写真を撮ることや見ることに何の抵抗も感じていないようだった。確かに美しい顔といえた。4年前より美しくなっていたかもしれない。しかしやはり死に顔だった。
午後に行われた最後のセッションは、親族だけのものだったが、私も参加させてもらった。Yanziも参加しなかったから、かなり特別な扱いをしてくれたのだと思う。ラマから薬の入った水を一人ずつ手に受け取り少し飲んで残りを捨てる。ラマの投げる米粒と水を手のひらに受ける。米粒を投げながら祈る、などの儀式を聖域の中で行った。
葬儀は午後4時半ごろにすべて終わった。
葬儀がすべて終わったあと若いラマによる余興のダンスが行われた。ボスラマが音頭を取る。
ムナの姉妹のなかでもいちばん悲嘆していた次女のバンダナはそれを見たがらず、家に下がってしまった。
葬儀のあともお客さんの接待は続く。むしろ葬儀が前部終わった後が客の接待のクライマックスのようだった。ただ飲み食いするためだけの客がたくさん入ってくる。
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2008年03月29日15:40
カテゴリa.ネパール
バサンタプルに戻る ムナのこと
3月13日。
朝、モヌにようやくムナの生前の写真アルバムを見せてもらった。私がムナに会ったころは、彼女がいちばん太っていた時期だった。
私は無駄な脂肪をつけて歩 いているというだけでダメなのだが、それでも彼女は美しく見えた。髪の美しさに全体を美しく見せるような力があったのかもしれない。
亡くなる3ヵ月前にハ イキングに行ったときに撮った写真もあったが、特にやせているということもなくまったく健康そうに見えた。
午前11時ごろチョウキChaukiを出る。ムナの家族に別れ、Yanziたちと一緒にバサンタプルに向かう。
ジリキムティに行ってみたかったが(どんなところだったかまったく忘れていたため)、チョウキからジリキムティへの道はジャングルで、一人では本当に危ないということ。山賊が出るらしい。女子供でも何人かいれば一応安全だということである。
Yanziとムナの友人だったチェトリの女とムナの従弟の少年と私の4人で、来た道を戻る。私はスニーカーを履いていたがサンダル履きの女たちについていけそうもないので、荷物を重くしていた本などを女たちに分担してもらって山道を歩く。ムナの従弟はよくいそうな少年で恩を受けるとあとが厄介そうな予感がしたので、チェトリ女に結構重い本を2冊持ってもらった。
グルビセでPathibhara Mandir(ヒンドゥ寺院)に登る。ここが標高2900メートル。私は別に興味もなかったがみんなが行こうというので丘に登る。記念撮影をする。このあたりのヒンドゥ教徒の聖地。その丘からムナの従弟だけが知っているジャングルの中の近道をトゥーテー・デウラリへ降りる。
午後5時ごろバサンタプル着。みんなでYanziの家に入る。Yanziの家に泊めてもらう。
3月14日。
バサンタプルに連泊。今夜もYanziの家に泊めてもらう。
バサンタプルは昨年のこの時期に雪が降りかなり積もった。昨夜その雪の写真
を見せてもらった。今夜は風が強く寒い。
Yanziの部屋にススで真っ黒になったKansai Airport Duty Free Shopの古い紙袋が物入れとしてぶらさがっている。
Yanziは、「シェルパ」はシェルパだがダライラマ亡命後にチベットから移住したシェルパで、「ソルクーンブのシェルパ」とは言葉も違うという。
ムナが「特別な人」だったということは、ムナについて語るすべての人が認めている。ムナは現地の基準でも美しかった。しかもたいへん「できた人」でカーストを問わずみんなに好かれていた。とくに髪の美しさは格別だった。Yanziによれば、葬式をしたタマンの僧も美しい人は早死にするなんて説教をしていたという。
私は旅先で多くの人に出会うがほとんどみんな忘れてしまう。しかし何年も前にほんの2日顔をあわせただけのムナのことを忘れなかった。ムナはみんなにとって特別な存在だった。
もしも今ここにいろんなカーストのネパール女性の写真を並べてどの女が美しいと思うかと聞いたとしたら、たいていの日本人はどこにでもいるみんな同じような顔のバウニを選ぶだろう。しかしムナにはそういうお約束の外見を超えた輝きがあったと思う。
なお、ムナの末の妹のモヌはかわいい18歳だが髪は美しくなく、ダランで150ルピア払ってアイロンをかけたんだとか。Yanziが教えてくれた。
ヒマラヤの見える学校で―ネパールの村教師滞在記 (エーデルワイスブックス)