反原発集会・デモというのが最近流行っていて、合言葉は「命」だそうです。
「命より原発を優先した」という非難のスローガンのもとに、大勢の群衆だけでなく、頭の良い知識人や、インテリ系の芸術家なども和合して、一致団結しているそうです。
私なんかが「命の価値とか変だ」とか、原発は必要だと言っても、バカのくせに偉そうなことを言うな、バカは素直にしなさい、と言われるくらいがオチでしょう。(ひょっとしたら、池田信夫先生にも言われそうで怖いです)。
みんなが原発反対だと言っているのに原発賛成だなんて。池田信夫氏くらいの(いろんな意味で)偉い人がいうならともかく、お前みたいなのが、みんなが反対している原発に賛成したり、みんなが賛成している「命の価値」に反対するような屁理屈をこねるとは何事だ。バカは黙っとれ。という感じでしょうか。
それでもやっぱり、私はこういう気持ちの悪いスローガンには、異議を申し立てずにはいられません。
「命の価値」とか、「命より原発を優先するのは良くない」とか。
「命」だといわれれば、誰でも死にたくないと思っているのは事実で、誰も「命の価値」を表立って否定出来ないところがあるので、反対しにくくなります。それだけでも「命」は危険な標語だと思います。
「命より原発を・・・」といいますが、誰も命と原発を比較衡量してどうこうしたわけではないので、もう理屈を超えた文芸としか言いようがないのですが、それでも立派な理屈のように通ってしまいます。なにしろ、ノーベル賞の大江健三郎氏が裏書している標語です。
じゃあ「車に乗る選択はどうなの?」とでも言えば、反原発派からは「御用学者の定番の詭弁だ」とか猛攻撃を受けるでしょう。これに立ち向かえるのは、やっぱり池田信夫氏くらいのしっかりしたアタマと地位のある人だけでしょう。頭も良くない一般人としては、内心「じゃあ車はどうなの?」と思っても、怖くて言えません。ツイッターなどでも、人付き合いを重視している人はそういうことは言い難かったりするのではないでしょうか。
「命の価値」と言われると反論しにくくなるのは、我々が、「命」を人質に取られているからとも言えます。
「誰も否定できない理念」を全面に押し立てていくことは、手管としては正しいですが、「誰もが認めざるをえない理念」は、役所ないし公権力のようなものだと思います。
「個人の自由」のような理念は、各方面から袋叩きにあっており、ボロボロです。
これに比べると「命の価値」はピカピカで、これを叩く勇気のある人は少ないと思います。
それでも、あらゆる理念は、立派なものであればあるほど、役所ないし公権力、のようなものです。
事実としての「命」は、現に生きていることであり、また、将来生まれることが期待されるということです。命は、生きていることなので、「死」に対するものです。
死んだ人には命はないので、死人には「命の価値」もありません。
いじめ殺された者は、すでに死んでおり、命がありません。いじめ殺した者は、生きているならば、命があります。生きている者は、「世の中で一番大切である」命を持った存在です。
だから、もう死んでしまった人のことより、生きている人の利益を重視しなければならなないというのは、「命の価値」の理念からは理屈に合っています。
これは詭弁ではないでしょう。詭弁どころか、日本の「実務」は現にこの道理に従ってずっと行われてきたのではないでしょうか。
事実としての「命」は、今生きている生命と、将来誕生が期待される生命です。しかし現実に生きている人も全員必ずいつか死ぬので、「命の価値」に照らして絶対的な価値があるわけではありません。生殖能力のない者や生殖の資格のない者(異性に選ばれない個体)なら尚更です。
理念としての「命」は、といえば、個体の保存の力、ないし、生殖の力、ということになるでしょう。自己複製の力で一括できるのかも知れません。いずれにしても「力」です。
「命の理念」というものを考えるとしたら、それは「力」だと思います。たえず外部にあるものを自己のものにし、自己複製していく力です。力のないことが否定され、力のあることが肯定される、力が賛美される営みに他ならないと思います。
命の賛美は、力の賛美にほかならないでしょう。他に何かあるでしょうか。
無生物の存在も運動であり、そこには力がありますが、無生物の世界では存在するものはすべて肯定されているといえます。無生物の世界では、存在は肯定です。ところが生物の世界では、否定されるものと肯定されるものがいます。生物としての存在は必ずしも肯定ではありません。我々も、「すべてを肯定」したいなら、生き物としての存在を超えた物の見方を持つ必要があります。まるで、物質の世界に「否定」と不平等の原理が忍び込んだことにより、生命というものが生まれたかのようです。そのようにも見えると思います。
私は、人間が価値があるのは、「自由」が与えられているからだと思います。自由を知りうるのは人間だけです。人間だけに自由が与えられていると言えます。だから、私は「命」より「自由」が貴いと思います。「命」ということでは、人間も猿もほとんど変わらないはずです。