Monthly Archives: Jul 2012

西洋思想を拒否する人は、着物で生活すべき

インターネットには西洋思想ないし西洋文明を否定しようとする日本人の言論が目立ちますが、彼らの日常の生活様式はどんなものでしょう。西洋思想を否定する人は、少なくとも着物で生活すべきです。そんなこともできないなら、西洋文明を心から受け入れる努力をすべきです。キリスト教にも十分な敬意を払うべきです。

われわれの周りにある便利なものはほとんど西洋由来のものです。靴からコンピュータまで、西洋の文物ばかりです。これらの多くは西洋の歴史的な生活、西洋文明、西洋思想と不可分です。

日本人の多くは西洋文明の成果を享受しながら、その背景にある歴史や思想を顧慮しません。利便だけは享受しながらその背後にある精神を全く尊重しないのは、恩知らずな態度と言わなければなりません。

日本人のほとんどが西洋に対して恩知らずになっており、いま日本がうまくいってないのは恩知らずにバチが当たっているからだといってもいいくらいではないでしょうか。

西洋が苦心して作り出したものに少しだけ改良を加えて、この微妙な改良こそオリジナリティあふれるもので日本文化だ、などと開き直ってきたのが日本人ですが、そんな態度でいれば軽蔑されるのは当然です。

モノには魂はありませんが、思想はあります。モノの利便性だけをエキスプロイトして、思想は捨ててしまうということを繰り返していれば、祟られるかも知れません。

原発にしても、管理者、技術者、作業員が、その思想を十分に理解し、十分な愛情を注いで扱っていないから、日本では故障するのではないでしょうか。日本人がもし、デモクリトス以来の原子理論への敬意や科学の進歩に対する信念を抱いていたら、深刻な原発事故は起きなかったでしょう。

日本人は、過去への執着を捨て、西洋思想をその矛盾とともに全面的に受け入れるべきだと思います。

どうしてもそれをしたくない人は、便利な西洋の文物の恩恵も拒否すべきです。コンピュータは捨て、着物を着て生活すべきです。

日本で「保守的な自由主義」は可能なのか?

別に難しいことを考えているわけではなく、以前から疑問に思っていることです。

欧米はいざしらず、日本で、「保守」と「自由」が両立しうるのかということです。

自由を尊重する考え方には、大きく分けて二つの流派(?)があるといわれます。一つは、個人の自由の倫理的な価値(自由は自然権であるとか)を自由を尊重しなければいけない根拠にするもの。もう一つは、政府が社会に「この先」介入しないことを何よりも重視し、介入しないことによって結局は「うまくいく」という考え方。

後者の場合、現存の社会に過去の権力や実力が作り出した伝統的な特権や不条理や抑圧が存在しているとしても、それは「よし」として、あえて手を加えて是正はしないということです。介入しないで具体的な社会の自律に任せておくことで結局は「よくなる」、幸福も自由も増大する、少なくとも介入するよりはマシなことになる、という考え方です。その意味で、後者の自由主義は「保守」です。

私は知識がないのでわかりませんが、イギリスのようにもともと社会に個人の「自由」を尊重する伝統のある国なら、国家が社会に口を出さず、社会を伝統のままに任せておくことが、経済のために良いだけでなく、結局は個人の「自由」を保障することにもなるのでしょう。そのような社会では、「保守」と「自由」は両立し、上の後者の自由主義が有効に機能するのだろうと思います。

しかし、日本のように、もともと社会に個人の自由を尊重する伝統が全くない国で、伝統を尊重し、社会を伝統のままに任せていたら、どうなるでしょうか。個人に自由は認められず、大部分の個人はその辺の有力者の奴隷になるしかないでしょう。つまり、越後屋と御代官様がやりたい放題しているのを奉行所が黙って見ているというだけということになります。

だから、日本では「保守」と「自由」はそもそも両立しないと思います。「保守」だといったら、「個人の自由」の敵ということになります。もちろん、どんな越後屋でも個人は個人なのでどこかの個人を尊重することにはなりますが、あまねく個人の「自由」を増大することにはなりません。「自由」の理念に資することもありません。もともと「自由」の伝統のない社会を「放任」していても、自由は生まれないと思います。

だからといって、私は、国家が社会に介入することが日本では重要だと思っているわけではありません。越後屋と御代官様が腐っている場合には、奉行所も同じように腐っているので、介入して「よくなる」ことはありません。(水戸黄門のような時代劇は有害です)。

自由の伝統のない日本において、本当に自由を尊重するつもりがあるなら、倫理的な立場から出発するほかないと思います。つまり、自由を自然権と考える信念を持ち、それに反するものを壊していくことです。

日本で「個人の自由」を本当に実現するためには、伝統社会も国家も「破壊する」ほかはないと思います。

「縄文人」を「日本人」と見做すのは誤り

琉球大学の教授が2005年に行った調査によると、沖縄県民の4割は「私は日本人ではない」という意識を持っているそうです。

学校で習う「日本の歴史」を思い出せば、沖縄県民がそういう感情をもつのはごく自然だと思います。琉球処分までの「日本史」は、沖縄人にとってはほとんど外国の歴史、隣国の歴史を自分の国の歴史として習わされる屈辱的な教科だと想像します。

沖縄人は日本人ではないという主張に対しては、「沖縄とアイヌは縄文人の直接の子孫」だからという理由をあげて、沖縄人は日本人であり、したがって沖縄は日本である、とする右翼的日本人による反論が必ず行われます。

この掲示板の書き込みにも、「父系遺伝子では本州人より日本人なのが沖縄人、大陸人にはない遺伝子 」ということを、沖縄人は日本人だという根拠にしようするものが見られます。

まず、「縄文人」が現在の中国や朝鮮半島の人間と血縁がなかったかどうかはどうでもいいことです。このことは沖縄人を日本人とみなすべきかどうか、沖縄人の「自分たちは日本人ではない」という意識が正当なものかどうかとは関係がありません。

そして、仮に、沖縄人とアイヌが「縄文人」の血を濃く受け継いでいるとして、日本国民の圧倒的な多数を占める本土日本人のほうは渡来人との混血が進んでいて「縄文人」の血を「ほんの僅かしか受け継いでいない」とすれば、(おそらくそれが事実でしょうが)、「縄文人の血をほんのちょっとだけ受け継いでいる種族」を「日本人」と定義すべきことになるでしょう。そうだとすれば、「縄文人」の血を「たくさん受け継ぎ過ぎている」アイヌや沖縄人は「日本人」とはいえないということになるはずです。

タタール(ロシアではモンゴロイド系遊牧民族の漠然とした総称のようですが)の血を少し受け継いでいるのがロシア人の特徴だとしても、純粋タタール人(モンゴロイド丸出し人)がロシア人の間に入って行ったら「ロシア人」としては扱われないでしょう。沖縄人やアイヌが日本人でないのもそれと同じことです。

「縄文人」の時代には「日本」という観念はなかったのであり、「日本人」も存在しませんでした。

「縄文人」の独特の遺伝子を僅かに受け継いでいるのが日本人の特徴だとしても、「縄文人=日本人」なのではありません。

だから、その「縄文人」の遺伝子を濃く受け継いでいるからといって、アイヌや沖縄人を「日本人」だとすることはできません。

そもそも、血統によって「日本人」かどうかを決めつけようとすることが、言うまでもなく間違っています。大部分の日本人は「縄文人」の遺伝子よりも中国人(渡来人)の遺伝子をタップリと継承しているわけであり、どの国に帰するかを遺伝子で決めて良いなら、日本人は(遺伝子の多数決で)中国人になり、日本は中国の一部になります。

「進歩」を信じることが大事だと思う

いまの社会、特に日本の社会は、(おそらく評価する人の思想信条を問わず)、気持ちのよい晴れやかな希望に満ちたところではなくなっているのは確かでしょう。

そのためか、ネットでも「昔はよかった」式の話がよく語られるようです。「こんな社会はぶっ壊れる。ぶっ壊れるべき」という終末待望言論とセットになっていることもあります。

「昭和時代は良かった」、「昭和30年代までは良かった」、「戦前の社会は良かった」、「江戸時代は素晴らしかった」など。江戸時代より前になるとイメージもつかめないせいか「夢物語」が語られることもあまりないようですが、江戸時代はもとより、戦前の日本社会の記憶のある人も少なくなっており、「昭和30年代」も団塊世代が少年時代の記憶としてかすかに覚えているくらいではないでしょうか。

私は、誰が過去についてどんなパラダイスを描いて見せようと、昔よりはいまのほうが良くなっていると信じています。江戸時代よりも今の日本のほうが、悪いなりに幾らかはマシになっているはずだと思います。

人間個人にしても、自分の若い時代と客観的に比較してみれば、今の自分のほうがいくらかマシになっていると感じるのではないでしょうか。個々の才能やヒラメキなどが衰えているとしても、「知恵」は増していると感じているはずです。ある程度生きた人なら、10代20代の頃よりは現在のほうが賢くなっていると感じるのが普通でしょう。

個人が年齢を重ねるごとに増していく「知恵」はどこから来ているのか。別に神秘的な理由があるわけではなく、一つ一つの経験・知識の積み重ねだと思います。それこそ「量から質への転化」(量の変化がある程度に達したところで、質の変化へと転化する)が繰り返されることにより、知恵が結晶していくのでしょう。

社会にも記憶があるならば(この記憶と社会との関係が「民族」とか「国民」の実質だと思いますが)、経験による知識が蓄積されて、「常識」「常識水準」「良識」が形成され、それなりの民度として結晶していくはずだと思います。

だから基本的には、江戸時代の日本人・日本社会よりは、明治時代の日本人・日本社会のほうがマシであり、現代の日本人・日本社会の方がマシだと思います。(江戸時代にも「日本人」意識は存在したようなので、比較可能だと思います)。そして、将来はもっとマシになっていくはずです。

ただ、どれだけ飛躍できるかは今のわれわれの心がけにかかっているのでしょう。

そこで大事なのは、原発だとか税金だとか政局だとかではなく、意識の根本を意識的に変えていくような努力だと私は思います。

飛躍するようですが、日本人の宇宙観とか宗教観を根本から変革しなければ、今の日本の「嫌な感じ」を克服することはできないと思います。

今の「嫌な感じ」は、客観的に昔より悪くなっているのではなく、昔からあった悪いところが自覚されてきているだけです。

今の日本の閉塞感、「嫌な感じ」は、”「根本的な物の見方」を変えよ。変えなければどうしようもないよ。”という要請だと思います。ただ、誰しも自分の「根本的な物の見方」は変えたくないので、それは嫌だという。しかし、それを変えない限り「昔からあったすごく悪い所」が変わらないことが自覚されてきている状況。そのジレンマが今の「嫌な感じ」の正体でしょう。

「根本的な物の見方の変革」の要請とは、飛躍するようですが(おそらく多くの人は賛成しないでしょうが)、日本人の多神教的な物の見方、伝統的になんとなく受け入れている自然崇拝、偶像崇拝、太陽崇拝などの、淫らな精神的習慣をを断固として捨て去れ、という(まさにこれらのものを超えた力からくる)要請だと私は感じます。

天皇は上述の「古い淫らな要素」の司祭であり、天皇をスクラップしなければならない理由もここにあります。

いま日本人が変わるべき方向は、「唯一神論または唯物論」を受け入れることです。「古い淫らな要素」を捨てて、「唯物論と唯一神論の対立」という、より高いステージに登ることだと思います。

残念なのは、いま盛んに世の中を変えようと活動している人々が、そのいずれにも属さず、彼らの依って立つ足場をよく見れば、事実上、自然崇拝だったりオカルトだったり、「自然」「大地」「地球」「太陽」などの被造物の偶像化にすぎないことです。言うまでもないことですが、太陽も月も地球も、唯一神論からは、造物主の創造したモノにすぎません。唯物論からは、存在の本質である物質の運動の展開にすぎないでしょう。

太陽や地球やその他の星や自然を「神」だとする教えは、決定的に邪教です。

日本および日本人に今必要なことは、宇宙観を問いなおすことであり、多神教、偶像崇拝、被造物崇拝、自然崇拝などからシッカリと足を洗い、同時に天皇制を終わらせることです。

ドストエフスキー「未成年」

これは不思議ちゃん。こんな難しい小説は読んだことがない。たぶん世の中に他にないのでは?(20世紀の「難しそうな」小説なんか薄っぺらで問題にならず)。

何度も立ち返りながら時間をかけて読んでも結局よくわからない。だからといって途中で捨てる気にもならないという「何か」はある。

これを読んでピンと来るという人がいたら天才じゃないのかな。

工藤精一郎の訳文もちょっと「?」なところがある。「頭に来る」と連発するが、頭に来るといえば頭にくることだが、「頭に浮かぶ」くらいの意味で使っている。

新潮文庫版で読む場合に注意すべきことは、最後についている佐藤優の解説を読まないこと

難しい小説とはいえ、ある読後感は必ず残す。それがまあ、小説から得られるカテというものであり、小説を読む価値でもある。

ところが佐藤優の「解説」はそれをぶち壊しにする。

佐藤優が人生で失敗するのは頭が悪いからだと思う。ロシア語の外務省通訳になれるほど語学(言葉)の素質があるにもかかわらず、同志社しか行けず、そのうえクリスチャンだなんて、相当地頭(じあたま)の悪いヤツなのでは?頭の悪いヤツはどうでもいいことにすぐ感動し、どうでもいいことを重大なことのようにクダクダしく書き立てる。

佐藤優の頭では、「僕はロスチャイルドになる。そして自分に引きこもる」というアルカージイの「理想」が(それが「理想」というにふさわしいものであることが)理解できない。これでは救いようがない。

「寄らば大樹の陰」


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日本乃至日本社会を少しでも良い国、良い社会にしたいなら、日本人の「寄らば大樹の陰」という思想(というか志向性)を、徹底的に洗い落とす必要があると思います。

「寄らば大樹の陰」という志向は、日本人が好む日本人論においても昔から批判的に言及されていたはずですが、案外マトモな批判がないものです。

これは現在も日本社会のいたるところに見られ、合理的な改革改善を妨げているだけでなく、この社会を「嫌らしい」ものにし、日本人の姿を(容姿を超えて)醜くしているものです。

「寄らば大樹の陰」とは、「大樹」すなわち「より勢力の大きな者」につくという事大主義ですが、「大樹」は客観的には「小樹」であることも多く、そこで実際に求められていることは、何かの「一員である」ことに安心を見出そうとすることであり、また、「ボス猿」の下に従属することによって自分で考え判断して決断し行為の結果に自己責任を負うという「重圧」から解放されて安心を得ようということです。

つまり「寄らば大樹の陰」の目的は、「安心」であり「安堵」であるといえます。「安堵」できれば、その木が客観的に大樹であるかどうかは、日本人にとってはどうでも良いのです。

「ボス猿」の下につくという時、その「ボス猿」が客観的に見て「尊敬すべき者かどうか」は実はどうでもよく、自分が尊敬しているかさえ問題ではない。ボス猿の下にいることで、(小)集団の「一員」になり自分の居場所が得られ、ボス猿に唱和して思考停止し、(自分で考え判断する責任を免れ)、「安堵」できれば良いのでしょう。

ボス猿に異議を唱える者が出てくればみんなで叩いて追い出す、ボス猿の敵を攻撃する芝居をボス猿の前でしてみせる。これらは、ボス猿への同意や尊敬からというよりは、ボス猿の礼賛という点で集団が「一致」して(思考停止して)いることの表明であり、そのことが群れの構成員たちにとってはボス猿そのもの以上に重要なのです。構成員の皆が「一致」して思考停止していることで、少なくとも仲間から攻撃を受ける危険がなくなり、「安堵」できるからです。

大樹の陰に依るということは、「個人」を捨てて「集団」を得る、ということであり、「思考停止」を得て「安堵」するということです。

多くの人々が「寄らば大樹の陰」を志向する日本の風土が、日本社会を「嫌らしい」「醜い」社会にしているばかりでなく、国力をも削いでいるように私には思えますが、そういうふうに思わない(むしろそれを日本の美風だとさえ思う)人々が現実には多いようです。

日本の集団は、掲げている標語が「反原発」であろうと原発推進であろうと、リーダーはそれなりの人たちかもしれませんが、そこに群れ集う人々は「個人」を捨て、「思考停止」を得て、「安堵」することを求めてやってきている人々ばかりです。

「安心」「安堵」は、日本では無条件に是とされますが、このことも疑ってみるべきです。

「安堵」を求める心が、人間をダメにし、肥大させ、醜悪にしている面が大きいのではないか?少なくとも、思考や判断を停止させ人間を怠惰にさせる面があります。安堵できる集団内で「波風を立てる」者は排除しなければならなず、個人の自由、自由な言論を抑圧します。

日本人の「寄らば大樹の陰」志向の頂点にあるのが天皇であることは言うまでもありません。「寄らば大樹」システムこそが天皇制だといっても間違いではないと思います。

生命と「自己」

巷では群衆が「命を守れ」と喚いているようなので、引き続き「命」について、私なりに考えてみたいと思います。

「生命」という自然現象が他の自然現象と異なるのはどういうところかと考えてみると、(専門家の説明は参照していないので素人考えですが)、「自己」というシステムを持っているところではないかと思います。

生物は、「自己」を認識し、自己と非自己を区別し、非自己を排除したり攻撃したり分解したり摂取したりし、「自己」を複製し、増殖しようとします。

だから、「命」の思想、生命礼賛思想というのは、「自己」を認識する存在が、「他」を排除、攻撃、分解、摂取しつつ、できる限り成長増大し、個体の成長増大が限界に達したときには自己を複製し、繁殖する(自己に似た「自己」を増やしていく)という働き、そういう働きの力強さ、を賛美する思想ということになります。

この場合の「自己」は、我々が「個人の自由」とか「個人の尊重」という時の、個人や個とは同じなのかどうか。

自己を非自己と区別するという点では同じですが、「生命」に於いては、その「自己」が運動すべき方向は一つに決まっています。つまり、自己の増殖、繁殖だけです。この方向に逆らう場合は「反生命」ということになります。その意味で、「生命」の思想は絶対主義です。あらかじめ一つの方向が与えられていて、それに反する者は「生命」から脱落していきます。その方向性は、あまりにも「あらかじめ」すぎるので、まるで自由であるかのように受け入れられていますが、自由ではありません。

他方、我々が「個人の自由」というときの「個人」は、自己ではありますが、「自由な個人」「自由な個」です。自由を与えられていると考えられる、自由な意志をもちうる個人です。

つまり、最初に「個人」という事実があるのではなく、まず「自由」という理念があり、自由な意志という要求があり、自由な意志の担い手となりうる統合の主体として、「人格的な自律」を可能にする器(個人)が選ばれるのです。

「生命」は、自己から始まり自己に終始しますが、人権思想に出てくる「個人」は、自由の理念の要請によって生ずる人格的自律の存在として認められるものです。

我々が人権思想を否定しないつもりなら、生命賛美(「命を守れ」的スローガン)はまずい、ということがわかるのではないかと思います。

世界の大部分の地域では、この世は「善であり全能である造物主」によって作られ、維持されていると考えられています。

それではなぜ「悪」が存在するのか、というのは昔からの難問です。

何が悪で何が善かわからないとはいえ、世の中すべて善人と善行ばかりと考えている人はおらず、確かに悪が存在していると考えられます。

「全く善で全能な造物主」が作り維持している世界になぜ「悪」がありうるのか。善から悪が生じるのはおかしいではないか、なぜ善である造物主が悪を作り出しているのか。

それは人間が試されているからであり、人間が自由意志で善を選び実践するチャンスを与えられているのだ。それこそまさに造物主が人間にのみ垂れてくださった慈悲である。というのが、おおよそ模範解答かと思います。

人間未満の事象には善悪は問題にならず、自由もありません。人間だけが自由の主体となることができ、人格的自律の存在たり得るので、人間の個人は貴い、というのが、人権思想の基本だと思います。ここでも貴いのは「命」ではなく「個人」です。

「命の価値」の危険さ

反原発集会・デモというのが最近流行っていて、合言葉は「命」だそうです。

「命より原発を優先した」という非難のスローガンのもとに、大勢の群衆だけでなく、頭の良い知識人や、インテリ系の芸術家なども和合して、一致団結しているそうです。

私なんかが「命の価値とか変だ」とか、原発は必要だと言っても、バカのくせに偉そうなことを言うな、バカは素直にしなさい、と言われるくらいがオチでしょう。(ひょっとしたら、池田信夫先生にも言われそうで怖いです)。

みんなが原発反対だと言っているのに原発賛成だなんて。池田信夫氏くらいの(いろんな意味で)偉い人がいうならともかく、お前みたいなのが、みんなが反対している原発に賛成したり、みんなが賛成している「命の価値」に反対するような屁理屈をこねるとは何事だ。バカは黙っとれ。という感じでしょうか。

それでもやっぱり、私はこういう気持ちの悪いスローガンには、異議を申し立てずにはいられません。

「命の価値」とか、「命より原発を優先するのは良くない」とか。

「命」だといわれれば、誰でも死にたくないと思っているのは事実で、誰も「命の価値」を表立って否定出来ないところがあるので、反対しにくくなります。それだけでも「命」は危険な標語だと思います。

「命より原発を・・・」といいますが、誰も命と原発を比較衡量してどうこうしたわけではないので、もう理屈を超えた文芸としか言いようがないのですが、それでも立派な理屈のように通ってしまいます。なにしろ、ノーベル賞の大江健三郎氏が裏書している標語です。

じゃあ「車に乗る選択はどうなの?」とでも言えば、反原発派からは「御用学者の定番の詭弁だ」とか猛攻撃を受けるでしょう。これに立ち向かえるのは、やっぱり池田信夫氏くらいのしっかりしたアタマと地位のある人だけでしょう。頭も良くない一般人としては、内心「じゃあ車はどうなの?」と思っても、怖くて言えません。ツイッターなどでも、人付き合いを重視している人はそういうことは言い難かったりするのではないでしょうか。

「命の価値」と言われると反論しにくくなるのは、我々が、「命」を人質に取られているからとも言えます。

「誰も否定できない理念」を全面に押し立てていくことは、手管としては正しいですが、「誰もが認めざるをえない理念」は、役所ないし公権力のようなものだと思います。

「個人の自由」のような理念は、各方面から袋叩きにあっており、ボロボロです。

これに比べると「命の価値」はピカピカで、これを叩く勇気のある人は少ないと思います。

それでも、あらゆる理念は、立派なものであればあるほど、役所ないし公権力、のようなものです。

事実としての「命」は、現に生きていることであり、また、将来生まれることが期待されるということです。命は、生きていることなので、「死」に対するものです。

死んだ人には命はないので、死人には「命の価値」もありません。

いじめ殺された者は、すでに死んでおり、命がありません。いじめ殺した者は、生きているならば、命があります。生きている者は、「世の中で一番大切である」命を持った存在です。

だから、もう死んでしまった人のことより、生きている人の利益を重視しなければならなないというのは、「命の価値」の理念からは理屈に合っています。

これは詭弁ではないでしょう。詭弁どころか、日本の「実務」は現にこの道理に従ってずっと行われてきたのではないでしょうか。

事実としての「命」は、今生きている生命と、将来誕生が期待される生命です。しかし現実に生きている人も全員必ずいつか死ぬので、「命の価値」に照らして絶対的な価値があるわけではありません。生殖能力のない者や生殖の資格のない者(異性に選ばれない個体)なら尚更です。

理念としての「命」は、といえば、個体の保存の力、ないし、生殖の力、ということになるでしょう。自己複製の力で一括できるのかも知れません。いずれにしても「力」です。

「命の理念」というものを考えるとしたら、それは「力」だと思います。たえず外部にあるものを自己のものにし、自己複製していく力です。力のないことが否定され、力のあることが肯定される、力が賛美される営みに他ならないと思います。

命の賛美は、力の賛美にほかならないでしょう。他に何かあるでしょうか。

無生物の存在も運動であり、そこには力がありますが、無生物の世界では存在するものはすべて肯定されているといえます。無生物の世界では、存在は肯定です。ところが生物の世界では、否定されるものと肯定されるものがいます。生物としての存在は必ずしも肯定ではありません。我々も、「すべてを肯定」したいなら、生き物としての存在を超えた物の見方を持つ必要があります。まるで、物質の世界に「否定」と不平等の原理が忍び込んだことにより、生命というものが生まれたかのようです。そのようにも見えると思います。

私は、人間が価値があるのは、「自由」が与えられているからだと思います。自由を知りうるのは人間だけです。人間だけに自由が与えられていると言えます。だから、私は「命」より「自由」が貴いと思います。「命」ということでは、人間も猿もほとんど変わらないはずです。

他人の心に立ち入らないことが大事


人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

オカルト屋が必然的に「冒涜者」であるのは、第一に、彼らが「人の心に立ち入る」ことを業とし、「自分は他人の心に立ち入ることができる」と自慢しさえするからです。

私は、「個人の自由」が何より大事であり、日本がダメなのは「個人」を尊重する風土がまったくないからだと思っています。(日本にそれが「ある」と思う人は、相当目が曇っているので、「個人」とか「自由」ということについて一から原理的に自分で考え直してみる必要があります)。

日本には昔、「寺子屋」がありましたが、読み書きソロバンを丸暗記させていただけで、「教養」とは無縁でした。フランスなどでは田舎の村でも聖堂付きの神父が百姓の子供を集めて「教理問答」を教えていたそうです。「キリスト教徒とは何か」というような問いに答えさせるという形式だったそうです。スコラ学だといってしまえばそれだけですが、曲がりなりにも「理屈」を教え、自分でモノを考える端緒になっていたことは否定出来ないでしょう。

こういう風土の違いもあり、日本では西洋に比べて、「自分で物を考える」ということが軽視されてきました。

日本のインターネットでは「ネトウヨの定義は?」とか「ソースは?」という問いが連発されますが、自分で考える習慣のない証拠と言えます。他人に「ネトウヨの定義」を聞くより前に、「個人」とは何か、「自由」とは何か、自分で考えてみるべきです。

日本に一人一人が自分の頭で考える習慣があったなら、「国民主権のもとでの天皇制」などという気持ちの悪いものが容認されているはずがないです。(イギリスは「国民主権」ではないでしょう)。知的に健全な国民なら、毎朝毎晩その議論で明け暮れるはずだと思います。日本がそうなっていないのは、日本社会がいかに不健全な社会であるかを示しています。

本題に戻りますが、個人の自由の重要な一環である「思想の自由」ということについて考えてみる必要があります。あくまで自分で考える必要があります。

憲法では、「思想の自由」の他に、「表現の自由」(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由)も保障されています。

なぜ、「表現の自由」の保障だけでは足りないのか。(信教の自由は別の背景があるのでここでは考えません)。

そもそも人の「思想の自由」そのものを侵害することが可能だろうか。

表現される思想の自由については、「表現の自由」によって保障できます。表現される思想については、弾圧することも容易です。しかし、「表現されない思想」つまり「内心」の自由を侵害することが可能でしょうか。

「表現されない思想」、つまり個人の「思想そのもの」の自由を侵害することは、しようとしてもできないはずです。

それではなぜ、「思想の自由」が重視され、あらゆる人権宣言(憲法)に高らかに掲げられているのか。

個人の尊重、個人の人格的な尊厳、個人の人格的な自律の尊重、思想の自由、そして表現の自由、という順序が考えられるから、とは言えます。

しかし実際的な理由は、「思想ゆえに」差別されたり弾圧されたりすることが決してあってはならないと考えるからでしょう。

「思想ゆえに」とは、「思想を理由にして」ということです。「表現ゆえに」にではなく「思想ゆえに」であるということは、「表現されていない思想」を理由にしても、個人が何らかの扱いを受けることがあってはならないということです。

要するに、思想の自由とは、「思想を理由にされない」自由のことであり、何よりもまず、「内心を『推知』されない」自由だといえます。

だから他人の「内心を推知する」ような振る舞いは慎むべきです。

「内心を推知する風土」「内心を推知しあう風土」に思想の自由が根付くことはないと思います。日本の風土に「個人の自由」が根付くことが絶望的である理由です。

思想の自由は、人格の尊厳に不可欠な人身の自由(身体の自由)よりも尊重されなければならないものと考えられています。(人の身体は裁判所の令状一つで拘束することができますが、思想だけは絶対に制約してはならないことになっています)。言うまでもなく、肉体を維持する自由(食べる自由)よりはるかに重要なものと考えられています。

マカール・イワーノヴィチの話


未成年 下巻 (新潮文庫 ト 1-21)

たまにはポジティブな明るい話を。(当然のように)引用になります。

この部分を「サンシモン主義」的な共産主義と結びつけて解釈する人もいるようですが、私はむしろもっと純粋な「宗教的な体験」に基づく記述のように思います。作者の体験とは限りませんが、作者がそれに近い感覚を持ったことがあったのかも知れません。(「宗教体験」というものは、本人が実際に体験していなくても、そういう話を聞いたり読んだりするだけで、実際にしたような気分になり、「ありありと語る」ことも可能なものです)。

とにかく、「読んでちょっと気持ちよくなれるかもしれない部分」ということで。

ドストエフスキー「未成年」(工藤精一郎訳)より。

彼は荒野の隠遁生活の話をするのがひどく好きで、『荒野』を『巡礼』よりもはるかに上においていた。わたしはそうした隠者たちのエゴイズムを主張して、はげしく彼に反論し、そのような人々は世界を見捨て、自分だけが救われたいというエゴイスチックな思想のために、人類にもたらすことができるかも知れぬ利益を放棄するのだと言った。彼ははじめその意味がわからなかったらしい。結局、わからずじまいではなかったとも、わたしには思われる。とにかく彼は真剣になって荒野を弁護した。

 「はじめのうちは(つまり荒野に居を定めたころは)、そりゃむろん、自分がかわいそうだと思うだろうが、そのうちしだいに、一日々々と喜びが大きくなって、やがて神の姿が見えるようになるのだよ」

 そこでわたしは、学者とか、医者とか、総じてこの世における人類の友と言われるべき人々の有益な活動の状況を彼のまえにくりひろげて、彼を感動させた。わたし自身も感激して熱心に語った。彼は「そうだよ、おまえ、そのとおりだよ、おまえはほんとにいいことを言うよ。そうだよ、それが正しい考えだよ」とたえず相槌をうった。しかしわたしが話を終わると、彼にはやはり賛成しかねるところが残った。彼はほうっと深い溜息をついて言った。

(ここまでがかなり大事なところで、ここまでを抜きにして次に続く部分だけに注目すると偏った解釈になるのではないかと思います)。

 「それはなるほどそのとおりだが、でもそんなふうにちゃんと自分をおさえて、溺れずにいられる者は、そんなにたくさんはいないのじゃないかな? 金は神ではないが、でもやはり半神みたいなものだ――大きな誘惑だよ。そこへもってきて女というのもあるし、自意識と嫉妬というのもある。そこで大きな目的というものを忘れて、目先のつまらんことにかかりあうようになる。ところが荒野ではどうだろう? 荒野ではなにものにもわずらわされることなく自分を鍛えぬいて、どんな偉大な功業にでもそなえることができるのだよ。アルカージイ! それに世間にはなにがあるというのだね?」と彼はさも腹だたしげに叫んだ。「夢想ばかりじゃないか? まあ砂粒を岩の上にまいてみるんだな、その黄色い砂粒が岩の上に芽を出したら、世間の夢想も実るだろうさ、――わしらのあいだではこんなふうに言われてるんだよ。キリストさまがおっしゃっておられるのは、そんなことじゃない。『行きて、汝の富をわかちあたえよ。そして万人の僕(しもべ)となれ』こうおっしゃっておられる。それでこそいままでよりも百万倍も豊かになるのだよ。だって人間というものは、食物や、高価な衣装や、誇りや、羨望で幸福になるのではない、限りなくひろがる愛によって幸福になるからだよ。そうなれば十万や百万ぽっちのすこしばかりの財産ではなく、世界中を自分のものとすることになるのだ! 今はあくことを知らずに集めて、ばかみたいにやたらにまきちらしているが、そうなればみなし子も、乞食もなくなってしまう、だってぜんぶが自分のもので、ぜんぶが自分の親類だからだよ、ひとつのこさず、ぜんぶを買いとってしまったからだよ! 今は、どんな金持も身分の高い者も自分の命数というものにすっかり無関心になってしまって、どんな楽しみを考え出したらよいのやら、もう自分でもわからんというようなことが珍しいことではないが、そうなると自分の日々と時間がまるで千倍にもふえたようになる、それというのも一分でもむだにするのが惜しくなり、一分一秒を心の悦びと感じるからだよ。本からばかりでなく、万象から知恵をくみとって、いつも神と顔を向きあわせているようになる。大地が太陽よりも輝きをはなって、悲しみも、溜息もなく、ただ限りなく尊い楽園だけがあるようになるのだよ・・・・・・」

 こうした感動的な突飛な言葉をヴェルシーロフもひどく好んだらしい。そのときは彼もちょうどそこにいあわせた。

 「マカール・イワーノヴィチ!」とわたしはすっかり興奮してしまって、いきなり彼をさえぎった(わたしはその晩のことをよくおぼえている)。「じゃあなたは共産主義ですね、そういうことを説くなら、それは完全な共産主義ですよ!」

無所有と瞑想によって「世界中を自分のものにする」という感覚は、インドのヨガ行者にもあるようで、そんなことを言っている人もいます。(ただし、どんな立派なことを言っていても、ほとんどはニセ行者です)。