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「アランヤプラテート 置屋」

Googleに削除されたブログ「航海日誌と批判」(URLを入れると「削除しました」と出るので単にアカウントが無効になっただけでなくブログとしても削除されたのだろう)は、Googleがどう思ったかは知らないが、社会倫理規範に違反するような内容のブログではなく、特に性に関しては「売買春反対」を大原則としていた。しかしタイ旅行関係の記事もあったので、執拗に「アランヤプラテート 置屋」といった検索フレーズで検索してくる人が多かった。同じ人が何度もやるとは思えないので、(そこに自分の得たい情報がないことはすぐにわかるので)、同じようなことを考えている人がたくさんいるということだろう。

昨年の末に思いつきでエクスポートしておいた「航海日誌と批判」の過去ログをこの新ブログにインポートしたところ、写真なしの哀れな残骸になっているが、検索エンジンが徐々にクロールし始めた。そうしたらまたまた「アランヤプラテート 置屋」が、少ないアクセスの中のかなりの数を占めて出てきた。(このWordPressブログはStatsが充実している)。

アランヤプラテートに「置屋」なんてあるんですか?ないから一所懸命にさがしているのか。安易にネットに頼るより、こういう本でも読んで基礎から勉強するほうが良いでしょう。


タイ買春読本

あるいはこんな本を書いている著者に直接コンタクトを取っておべんちゃらを言いまくれば、「チェンマイで処女をトラック一杯仕入れる方法」なんてのを教えてくれるかもしれません。


アジア雑貨屋さんの仕入れ術―あなたの旅を変えるプロの全ノウハウ

この3週間(ブログ開設以来)の少ないアクセスのなかには、「エレバン sex 置屋」なんてのもありました。

エレバンは、アルメニアの首都です。旧ソ連の国。ソ連風の建築なんかが見どころといえば見どころ。エレバンに「置屋」なんてものがあると思うのが不思議です。

「赤い灯火」ですぐそれとわかるような売春宿があるのは、タイとその周辺だけです。どんな国にも売春はあるでしょうが、たとえば何の変哲もない家の中で行われていて、知る人だけが知っている、というほうが普通でしょう。一見(いちげん)の外国人が簡単にアクセスできる売春宿がいたるところに散らばっているようなのは、タイとその周辺だけです。

因みにアルメニアでどうしても、という人は、コーヒーショップ(トルココーヒーだと思うがアルメニアはトルコと仲が悪いので、アルメニアで「これはトルココーヒーですね」と言ってはいけません)のウェイトレスと仲良くなると良いそうです。特に金髪碧眼でニコニコしているロシア人の女の子が狙い目だとか。私は海外で悪いことは一切しないのでわかりませんが、現地の青年は「簡単だ」と言ってました。ロシア人の女の子は、アルメニア人男性に聞く限りでは非常に尻軽だということなので、何を移されるかは知りません。

アルメニア人の百年の恨み

去年アルメニアで出会った二十歳そこそこの青年は、「トルコ人によるアルメニア人虐殺」について私に語ってくれた。

100年前にオスマントルコ兵がアルメニア人に対して行ったという残虐行為を、昨日のことのように語る。

「トルコ兵は妊婦の腹を割いて赤ん坊を取り出した」など、見てきたかのように語る。

このことから我々が学べることは何か。

まず我々も、どんな対応をしたとしても、あと100年くらいは同じことを聞かされ続けなければならないだろうということだ。

しかしトルコは、少なくとも日本よりは、周辺国に対して堂々と振る舞っている。

アルメニア人のたわごとを聞かされて贖罪意識にとりつかれるような、マヌケなトルコ人はいないだろう。

他国の人間が、つまりは野蛮人が、自国についてあれこれいうのをいちいち気にしないというのは文明人としての基本的なたしなみである。

これが、近代日本人には欠けている。

外国人にちょっと良いことを言われると大喜びし、悪いことを言われれば小学生のように畏まって謹聴する。褒められても叩かれても振り回されるのである。

しかし有力な国である限り、悪いことは、最悪なことも含めて、必ず言われ続けなければならないのだ。

何故日本人はこのような弱点を持つのか。日本人は何故毀誉褒貶に弱いのか。

私は、おそらくそれは、日本人が「歴史を失っているから」だと思う。

このことは、戦後に限ったことではなく、近代日本を特徴付けるものである。

簡単に言ってしまえば、日本人が先祖に対する本当の畏敬の念を失っているからだ。

多くの偉大な民族から学ぶべきである。

旧約聖書の神は「先祖の神」である。啓典の民はすべて偉大な預言者アブラハム(イブラヒム)を祖先に仰ぐのである。

そしてここからが大事なところだが、真に祖先を崇敬する者は、祖先の悪行をも善行をも等しく崇拝する者でなくてはならない。

祖先の暴虐な侵略、殺戮、侵奪もまた、いま我々をここに生かしている「力」なのだ。

言うまでもなく、善悪は時代や環境によってどんなふうにでも変わる。しかし祖先とのつながりは、そのような価値評価を超えて決定的である。

アジアの諸民族を見ていると、私はこのようなことを痛感する。

日本人の現実は、まだ民族にさえなれていない雑民の集団のようである。

「単一民族説」を非難する連中は、「日本国が単一民族国家である」ことを否定したいのではなく、むしろ「日本民族」そのものの実存を否定したいのである。